昭和48年2月7日 朝の御理解
                                中村良一
御理解 第75節
「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」



今日は、私は、この、んー、神が見ておるぞと、しかもそれは心での場合であっても、やはり、見ておると言うておられると思うのです。ここのところも聞いて頂きたいと思います。天地が照覧したものとか、ね。神様が知ってござるけんでというような意味の事は、誰でも言うのですけれども、ほんとに、あの神様が見ておいでであるという事は、勿論、聞いておいでであるという事でもあります。しかもそれは、あの、言葉という意味ではなくて、心で思うた事でも、ね。やはり、見ておいでである、聞いてお出でであるという事なんです。ね。心で殺すという事は。ですから、それをその、神様が、あー、見ておると仰る事をね、それを信じるということが、あー、信心の、おー、ポイントにならなければいけない。ね。人が見ておると、遠慮するけれども、誰も見ていないと、遠慮がない。というのは、ね。神様を、いわば、ないがしろにしておるのと同じですね。神様が見ておいでである、神様が聞いておられる、ね。だからこれは、その反対のことを言うと、んー、心で殺すのはと、こう、かえってそれは重い罪じゃというふうに仰っておられるように、だから、心で生かすという事になれば、それとは反対のことになる。ね。神は見ておる。だから、それは、まあ例えていうなら、あー、心で生かすという事は、あー、心で殺すことが、まあ、重罪であるならば、心で生かすことは、神様から、お褒賞を受けても良いことになる。下さるという事にもなるわけです。ね。ですから、その、本当にお徳を受けた方たちの場合は、形のことよりも、内容、ね。心のほうを大事にされた。神様から、いつもご褒章を頂き続けておられる。だから、お徳が、いよいよ頂けていけれるわけなんです。例えば、最近、頼んでからでもとこういう、ね。これは形で、んー、頼んでからでも信心してもらう、お参りしてくる。で、もう、頼むけれども、いう事を聞かない。ならば、やはり、今度は、ね。心で頼み続けなければいけない。いわゆる心、いわゆる、黙って治めるという、本当のいき方にならなければいけない。ね。そのためには、その祈っておることが、心で思うておる事が、実現するほどしの思いですから、ただ、思うとります、願っております、もう、黙ってさえおりゃ良いというもんじゃ、全然ないです、ね。自分が心で思うておる事。それが、有難いものが実現するほどしの事ですから、ね。その思いたるや、いよいよ、切であると同時に、それが純粋であらなければならない事が分かります。そこで、神様がです、見てござると言うなかに、それを信じて生活させて貰うという事が信心なんです。そこで、どういう事になるかというと。んー、私は、昨夜から、ずっと思い続けておることは、これほどしの間違いのない、一分一厘間違いのないお働きを下さる神様に対してです。ね。どのような信心をさせて貰うて、これにお応え申し上げようかという事なんです。私は、必ず、夜中に一遍通り、こうずっと、廻って歩くわけです。そして、戸締りがしてないところがあったりしますと、それを閉めて、まあ、廻るわけです。昨日、まあ、要所、要所を見て廻りながら、思うたことは、もう、本当に、ここのご建築の場合、もう、本当に神様の働きの一分一厘間違いのない働きの中に、これが建立されたんだなあという事を、もう、どこへ行っても、それを感ずるわけです。素晴らしいことだなあと、こう思うのです。とても、なるほど、人間の知恵とか、あー、力とかというのが、あー、いわば、主になっておるようであるけれども、実際は、神様が、そうなさしめておって下さったんだなという事をです、ね。ですから、例えば、及ばないところなどは、あー、神様が、あー、わざわざ間違いを起させてからでも、んー、いわゆる、一分一厘間違いのない働きを御広前の上に現しておって下さる。これはまあ、形のことですけれどね。だから、これは、まあ、ほんなら、その事だけじゃありませんけれども、全ての点において、そういう働きを下さる神様。また、そういうおかげを受けておる、その事に対して、どう神様に、お答えさせていただこうかという事をです、思うのです。昨日のご理解の中に、私が、段々おかげを頂いていくのは、ね。これではいかんと、いつも思うておるからだという事。ね。いわゆる、教祖のことばを借りると、これですんだとは思いませんと、こういう事。ね。もう、いつでもこれではいかんと。私は、そんなお話を、昨日、皆さんに聞いてもらったら、何人かの方が、それを言われるんです。もう本当に、親先生が仰るとおり、これではいかんと思いますばってん、もう、ずるずる、うー、信心にその、反対のほうに成って行くという意味の事を言われるから、びっくりしましたと。私が、これではいかんというのは、もう、あの、ずるずる落ちるとかね、後いざりをすると言う意味の事じゃないです。私は、はー、これじゃいかん、これじゃいかんと思いながら、ずるずる、うー、おかげ頂けない方へなって行くというのじゃなくてです。しかし、そういう場合も、やっぱ使いますもんね。これではいかん、これではいかんと思いながら、つい、悪の道に走るといったようなことを申しましょう。だから、それではないのです。皆さんが、これじゃいかん、これじゃいかんと思いよるが、なかなか出来ませんと。そげな事はないです。私が言う、これではいかんというのは、そこに、いつも、ね。これではいかんと思うておりますから、そこに、手掛かりが、もしあるとすると、足がかりがあるとすると、もう、それに、手をかけ、足をかけて、もう、次の信心に飛躍しておることなんです。だから、私がおかげ頂くなら、これだという意味に聞いていただいて、皆さんも誤解があるといかんから、きょうは、また、一口、申すんです、置かなきゃならん。ね。ですから、例えば、神が見ておるという事がです、ね。神様がご承知であるということがです。分かってくれば来るほど、そういう事になってくるわけなんです。ね。神様が見通し、神様が聞きとおし、ね。そこで、ね。その神様のお心に答えまつろうという事がです。合楽の場合は、ほんなら、合楽のお広前にです、今申しますように、一分一厘の間違いのないほどしの神様の働きをです。現しておることを、皆さんも、見たり聞いたりしておいでなのですから、ね。この、神様が見ておいでになるなという事をです。本当に、実感してもらわなければならないという事。ね。そこから、いつも自分の心の中に今中だ。どういう、おかげを頂いても、だから、あー、私の場合は、あの、信心もこれで良いとは思うていないのですから、おかげもこれで良いとは、決して思ってないのです。これだけの事が出来たから、と、腰かけないです。安心しないのです。ね。だから、そういう場合を、なら、教祖は今中とこう仰っておられる。だから、要は慢心の出ようがない。油断のしようがない。
昨夜、遅う、テレビで、えー、大阪城の女という、最終回の場面を見せてもらいました。秀頼と千姫が、もう、いよいよ、落城寸前ですけども、ね。もとの、おー、いうなら、大阪方、いわゆる、豊太閤の、あの、威勢のあった時代に、もう一遍盛り返そうといったような思いは、さらさらない。千姫と二人で、どんな暮らしでもいい。ただ、人間らしゅう睦まじゅう、ね。暮らしたいというのが、二人の願いであった。そういう思いだという事をお互いに、心のなかを話し合うところがございました。ね。そしたら、その時に神様からね、えー、何ち言うたかねあの人は、んーと、ちょっと失念しましたけど、とにかく、没落という意味の事を頂くんです。そういうことでは。ね。没落はしないにしても、衰微の一途をたどるという事です。ね。これこれだけのおかげを頂きゃ、もう他にいう事はなかと、言ったようなことで、如何にいけないかという事が分かります。もう、商売も、大分繁盛しよるし、家庭も円満に行きよるし、もういう事はなかと。ね。なるほど、そういう信心は、必ず、没落はせんにしても、衰微をたどるだけです。ね。子供の代にも、孫の代にも、繁盛していかなければならない道に、縁を頂いておってもです。ね。だから、この願いを大きく持つという事でしょうか。えー、そういう例えば、願いが成就しても、そういう願いは、必ず、衰微をする。いわゆる、今の言葉で言うと、マイホーム的なおかげという事です。ね。そこで、私共がです。その神様が見ておいでられる世界、神様がお聞きになっておられる、いわゆる、見通し、聞き通しの神様の世界にです。私共が、あー、信心させて貰うという事。ね。ですから、限りない、いわば、信心を願わしてもらうという事に繋がる、今の考え方というものを変えなければいけない。その、今、第一に、私が申しましたことは、ね。これほどしのおかげに対してです。これに、どう応えようかという神恩報謝の心を、いよいよ、募らせることです、第一。ね。だから、これほどしのおかげというものを、先ず、皆さんも受けなければなりませんけれどもです。ね。それを、はー、神様ちは、一分一厘間違いがないなという事実を、合楽教会の上に、皆さんが感じて下さったら良いわけです。勿論、だから、それを、自分自身の上にも頂いていかなければなりません。そこに、神恩報謝の心というものは、もう、これだけお礼を申し上げたから良いというのでは、決してないのです。ね。次に、私たちの願いというものがです。一言、二言、お聞き届けを頂いたという程度でです、もう、これより欲な事は言いませんと言ったような信心ではなくて、いわゆる、限りなく、三代金光様の時代に、ある先生が、ね。ある問題をお届けなさって、金光様、おかげは受けられましょうかと言うて、あの、お伺いなさった時に、向こうのほうは、開けっ放しでございますと仰ったという事。もう、無尽蔵、限りがないおかげの頂けれる世界におるのですから、ほんなら、そういうおかげの頂けれる姿勢を、私共が取らなければいけないという事。ね。神恩報謝の心と、これは、神様の一分一厘間違いのない、こういう働きを頂いておる。信心も出来んのに、このようなおかげを頂いておる。このおかげに対するところの、おー、信心を、どのようにさせていただこうかという思い。そして、そこに答えが出てくるのが、昨日、私が申します。これではいかんと、いつも思い続けることなんです。ね。だから、そういう思いがあるところに、必ず、手掛かりがある、足がかりの神様がある。そういうチャンスを与えて下さる。そこに、次の信心の飛躍があるわけです。いよいよ、神様が見ておいでだなあ、聞いておいでだなあという事を、実感として感じれる世界に、また一歩近付く事が出来るわけなんです。これは、何の道でも、おー、同じですけれども、名人、達人と言われる人達の話を聞きますと、同じことを言います。ね。これで良いという事じゃないと。もう、例えば、芸なら芸の道はもう、本当にもう、何時もです、ね。これではいかんと、やっぱり思うてるという事。もう、これで良いなんてことは、絶対、思ってないです、名人、達人という人は。例えば、踊りなら踊りを習う人達が、素人さんが習う。そしてもう、これとこれと覚えりゃ、もう、ちょいと、お客の座で、えー、二つ、三つ、踊りきりゃええというくらいの程度で稽古する人は、もう、それきりの事。けども、その踊りを教える、ほんなら師匠さんになってまいりますとです。もう、どれだけ踊っても踊っても、限りがないという事に答えが出てこなければ、もう、その人の芸はもう、止まっておると言うても良いです。これは、芸の道だけじゃありません。全ての道にもそうです。しかも、名人、達人と、例えば言われる、話されるほどしの人でもです。ね。人でもじゃない、人ほど、それを思います。しかも、同じことです、そこに出てくる答えは。限りがないからです、稽古という事には。ね。向こうのほうは開けっ放しだと。もう限りがない、無尽蔵のおかげを受けていくためにもです。私共の、信心の稽古をさせて頂いておりますという、本当にそうならばです。ね。しかもね、私共一代じゃないて。
昨日、私、いー、あの、魂の世界のことを申しましたように、例えば、昨日のお話のなかからでも、なるほど、魂というものが、あー、そういう世界に、いわば、あー、清まる心の世界には、清まった心の行き所というものが、点と定まっておるんだという事。ね。ですから、まあ、分かりやすくいうなら、本気で極楽に行きたいと思うならば、極楽に行けれる、ふさわしい心を頂いておかねばならない。それには、先ず、言うなら、私共がこの世で極楽の味わいとは、こういうものかというおかげを頂いておかねばならんというのが、御道の信心ちいう事。それもです、神様が見ておいでる、聞いておいでるという、確かなものが信じられるからです。限りない、その修行にも進んでいかれるわけです。ね。俺とお前と、別にまあ、殿様になることは要らん、ね。どうとかでも、睦まじゅう暮らして行けたら、それで、それを願っておるというようなことでは、必ず、没落に向かっていきます。どんなおかげを頂いておっても。ね。ですから、私共の願いを大きく持て、大きくもって、それがね、神様が見ておいでる世界を信じれれるようになったらです。いわゆる、その限りないおかげに挑んでいくというか、向かって進んでいくという信心。ね。それには、なら、信心が好きであるというだけではなくて、信心の稽古が好きである。ね。自分の心に感じれれる、ね。なるほど、心で殺すことも出来るが、心で助けることも出来るような実感というか、そういう体験を積んでいくこと。いよいよ、心に力を頂かなきゃならん。いよいよ心が、限りなく純粋な、麗しい心というものが、求め願われるのであります。その過程においてです、例えば、様々な、その信心をお互い体験するわけですけれども。
昨日、合楽の野口つぁんがお参りして見えてから、お届けでした。昨日、嫁後がこげなこつ言いますというてお話しておられます。信心の無い者が、えらーい都合よう行っておる。だから、お母さん、かえって信心のなか人達のほうが、都合よう行きよりなさるごたるですねち言うてから言うた。あー、誰でも同じような事を考えよるの、一遍は。私も、昔、そげな事を親先生にお届けしたことがあった。信心が薄いとか、信心が無い人達が、かえって結構やって行きよりなさる。私共は、毎日こうやって、稽古しよるばってん、まあ、良かこつは無い、といった様な事を、お届けしたら、親先生が仰った。野口つぁん、一反から、ね、田んぼ、一反から、あの、収穫がある。その、一反から収穫があるなら、十俵なら十俵とするならば、それでよかならば、あの、そげなおかげを頂いてもいいよと。けれども、もう、限りないおかげ、いうなら、五反よりも一町、一町よりも二町と、願っておる願いがあるならば、ね。というご理解を頂いて、ほんにそうと思うたという話を嫁後にしました。もう本当に、素晴らしいと思いますですね。もう、十何年も前に頂いた御理解を、そのまま、こう、自分の心の中に。なぜかというと、そういういき方でこらせて頂いたから、今日のおかげがあるからなんです、やはり。なるほど親先生が、あん時に難儀な問題を、一つ、二つ、ただ、その場で助けて下さるようなおかげでなくて、ね。その事によって信心の稽古をさせていただいて、五反が一町に、まあだまあだ、これから、いよいよ、大きな、いわゆる、おかげの場というものを作って行かなければならないと思いますと言う体験を、ご自身持っておられるから、嫁後にそれを話された。ほんなごて、お母さん、そうですねと。ま、合点させたというわけなんです。ね。神様が、見ておいでになる。そういう世界。ですからもう、一分一厘だって無駄が無い。神様に向こうた心というものは、ね。いわば、向かわなければおられんという事になる。その、ほんなら、そういう信心の過程においてはです、ね。本当に神様が見てござるだろうか、聞いてござるだろうかと思うような事もあるけれど、ね。けれども、なるほど、私が願っておるなら、限りないおかげであるとするならばです。今こそ、おかげの受け場、受けものが出来ておるんだと、分からして頂くときに、いよいよ、信心の楽しみが生まれてきて、そここら生まれてくる体験。あー、ほんなこつ、一反が二反になった。二反が三反になったという心の上に、それを実感できる。ね。もう、そりばってん、もう一町にもなったから、もうこれで良かというようなものではなくてです。もう、限りない信心がね、なされる。もう、あれと、これと、これと、おかげ頂きゃ良かと言ったような、いわゆる、マイホーム的なおかげに甘んじておっては、よし、おかげは受けましょう。けれども、それはもう、永くは続かないという事。必ず、衰微をたどる。必ず、それは没落する。神様が見ておられる。神様が見ておるぞと仰る、ね。それを先ず、なるほど、見ておいでの世界だという事をです。私共は、先ず、確信の出来れるところまで、信心を高めねばいけない。ね。そして、それに、そういう御働きに対して、どう応え申し上げたらよいかと言う思いがです。ね。これではいかんという、昨日の御理解になってくるわけです。ね。これではいかん、ね。そこには必ず、手掛かり、足がかりが、次の信心の飛躍の、いわば、お繰り合わせというものがいただけない。心で殺すのは神が見ておると。ただ、心で殺すことだけを見ておるという、いうならば、ね。罰をかぶらせるというだけの神では無くて、ね。ご褒美もやりとうてたまらんという神様のおかげである。昨日、一昨日でしたかね、寒修行が終わった朝だったでしょうか。桜井先生の奥さんだったでしょうかね。ご神夢を頂かれた。ここのあの、長い廊下にもう、沢山なお土産が、もう、荷造りして直ぐに下げてもっていけれるばっかりにしてもう、沢山おいてあったというお知らせを頂かれた。果たしてあれを、頂いてみんなが行っただろうか。ね。寒修行に、これだけは得た。これだけはおかげを受けた。というものを、はっきり頂いておったら、たったこんくらいな修行で、こげなおかげば頂くならば、こりゃ、寒修行すんだけん、とても止めだんされんという事になってくるはずだと思うですよね。おそらくは、みんな、せっかく用意してあったのを頂いていかんもの方が多いかったんじゃなかろうかといった感じがする。ね。いよいよ、神様が見ておいでられるという事実をです、ね。心の上に実感出来れる。それは信じれれる信心を、先ず頂かなければいけませんね。どうぞ。